兄が認知症だと、親の遺産分割は一歩も進まない
父が亡くなり、相続人は母と自分と兄の3人。財産は実家と預貯金が少し。もめる要素はどこにもない。
そう思って手続きを進めようとしたところで、止まります。兄が数年前から認知症で、施設に入っている。
この状態では、遺産分割協議は成立しません。家族全員が納得していても、です。
もめていないのに進まない。この理不尽さが、認知症と相続が重なったときの一番つらいところだと思います。
先に結論だけ
・判断能力を欠いた人が参加した遺産分割協議は無効になる
・家族が代わりに署名・押印することはできない
・解決策は成年後見の申立てのみ。選任までおおむね3〜4か月
・後見人が就くと、分割の中身も自由に決められなくなる
・当面の資金は預貯金の仮払い制度で一部引き出せる
・生前に遺言か家族信託があれば、この事態は避けられた
なぜ「全員が納得していても」ダメなのか
遺産分割協議は、相続人全員の合意が要件
遺産分割協議は、相続人全員が参加して合意することで成立します。ひとりでも欠けていれば無効です。
そしてもうひとつ、参加する各人に判断能力があることが前提になります。
遺産分割協議は法律行為です。意思能力を欠いた状態で行った法律行為は無効とされています。認知症が進行して契約内容を理解できない状態の人が署名した協議書は、法的に効力を持ちません。
怖いのは、その場では気づかないことです。手が動くので署名はできてしまう。押印もできる。銀行や法務局の窓口を通ってしまうこともあります。
しかし後から誰かが「あの協議は無効だ」と主張すれば、そこで争いになります。手続きをやり直すことになれば、名義変更した不動産や解約した口座の処理まで巻き戻ります。
「弟が代わりにサインする」は通用しない
よくある発想が、面倒を見ている家族が代筆するというものです。
これは通用しません。むしろ、私文書偽造の問題になり得ます。
兄弟だから、面倒を見ているから、という理由で他人の財産処分を代理する権限が生まれることはありません。代理権は、本人が与えるか、法律や裁判所が与えるかのどちらかでしか発生しないからです。
そして認知症が進んだ後では、本人が代理権を与えることもできません。
解決策は、成年後見の申立てしかない
すでに判断能力が失われている場合、取れる手段は実質ひとつです。家庭裁判所に成年後見開始を申し立て、選任された後見人が本人を代理して遺産分割協議に参加します。
申立てができるのは、本人、配偶者、四親等内の親族などです。兄弟であれば申立人になれます。
選任まで3〜4か月かかる
申立てには、医師の診断書、本人の戸籍謄本や住民票、財産目録、収支予定表といった書類が必要です。準備だけでも数週間かかります。
提出後は家庭裁判所による調査、親族への意向照会、場合によっては鑑定が入り、審判が出るまでおおむね3〜4か月というのが一般的な目安です。
つまり、相続手続きはその間まるごと止まります。
費用
費目 | 金額の目安 |
|---|---|
申立手数料(収入印紙) | 800円 |
登記手数料(収入印紙) | 2,600円 |
郵便切手 | 3,000〜5,000円程度 |
診断書の作成費用 | 数千円程度 |
鑑定費用(命じられた場合) | 5万〜10万円程度 |
鑑定がなければ合計1万5千円〜2万円程度に収まります。申立書類の作成を専門家に依頼する場合は、別途報酬がかかります。
書類の量と裁判所とのやりとりを考えると、仕事をしながら自力で進めるのはかなりの負担です。成年後見の申立てサポートのように、申立書類の準備から関わってくれる窓口を使うと、着手までの時間が短くなります。相続手続き全体が止まっている状況では、この数週間の差が意味を持ちます。
家族が後見人になれるとは限らない
誤解されやすい点です。申立ての際に候補者を挙げることはできますが、最終的に誰を選任するかを決めるのは家庭裁判所です。
財産額が大きい場合や親族間に意見の対立がある場合、弁護士や司法書士といった専門職が選ばれることも珍しくありません。その場合、面識のない人が兄の財産を管理することになります。
後見人が就くと、分割の中身も変わる
ここが、多くの人が想定していない部分です。
法定相続分を下回る分割はできない
成年後見人には、本人の財産を守る義務があります。そのため遺産分割協議においても、本人の法定相続分を最低限確保する内容でなければ合意できないとされています。
これが実務では効いてきます。
たとえば「実家は同居していた弟が全部相続し、兄は施設にいるので取り分はなしにする」といった分け方。家族の間では合理的に見えても、後見人は同意できません。
「兄はお金を使う機会がないから」という理由も通りません。後見人が見ているのは家族全体の事情ではなく、本人の利益だけだからです。
結果として、実家を売って現金化するしかなくなるケースもあります。誰も望んでいなかった結論です。
後見人自身が相続人だと、さらに手続きが増える
仮に弟が兄の後見人に選任されたとします。そして父の相続では、弟も兄も共同相続人です。
この場合、弟は自分の取り分を主張する立場と、兄の利益を守る立場の両方を兼ねることになります。利益相反です。
民法上、後見人は利益相反行為について本人を代理できません。そこで家庭裁判所に特別代理人の選任を申し立て、その人が兄の代理人として協議に参加します。後見監督人がいる場合は、監督人が代理します。
申立てがもう一段増えるということです。
いちばん重いのは、相続が終わっても後見が終わらないこと
成年後見制度の最大の論点がこれです。
遺産分割のために始めた後見でも、協議が終わったら終了、とはなりません。本人の判断能力が回復しない限り、後見は続きます。
専門職が後見人に就いていれば、報酬は月2万円程度から。これが本人が亡くなるまで続きます。10年で240万円規模です。
「相続手続きのためだけに一時的に使う」ということが、現行制度ではできません。
2026年に法改正が成立している
この点については動きがあります。
成年後見制度の抜本的な見直しを盛り込んだ改正民法が、2026年6月17日に成立しました。約25年ぶりの大改正です。
主な内容は、目的を達成したら利用を終了できるようにすること、「後見・保佐・補助」の3類型を「補助」に一本化すること、代理権や取消権の範囲を個別に定めること、後見人の交代をしやすくすることなどです。
遺産分割のためのスポット利用が現実的になる、という意味では大きな変化です。
ただし、実際に新制度が動き出すのは2028年ごろとの見通しが示されています。いま目の前で相続が発生している人にとっては、現行ルールで進めるしかありません。
当面の資金は「仮払い制度」で確保できる
後見人の選任を待つ数か月、葬儀費用や当面の生活費をどうするか。ここは制度で手当てされています。
2019年に施行された預貯金の仮払い制度により、遺産分割前でも各相続人が単独で一定額を引き出せます。
計算式は、相続開始時の預貯金額 × 3分の1 × その相続人の法定相続分。ただし同一の金融機関からは150万円が上限です。
「口座が凍結されて1円も動かせない」という説明を見かけますが、正確ではありません。使える制度があることは知っておいてください。
もっとも、これはあくまで資金繰りの話です。不動産の名義変更も、口座の完全な解約も、遺産分割協議が成立しなければ進みません。
生前にできた回避策は2つあった
ここまで読んで、自分の親のことが気になった方もいると思います。
相続人のなかに認知症の人がいる、あるいは将来そうなりそうだとわかっている場合、生前にできる対策は主に2つです。
① 遺言書を作っておく
もっとも確実で、費用も抑えられる方法です。
遺言書で財産の行き先が指定されていれば、遺産分割協議そのものが不要になります。協議が不要なら、相続人に認知症の人がいても手続きは進みます。成年後見の申立ても要りません。
さらに遺言執行者を指定しておけば、その人が単独で名義変更や口座解約を進められます。
冒頭のケースでいえば、父が生前に遺言を残していれば、兄の認知症は手続き上の障害になりませんでした。
公正証書遺言なら形式不備で無効になるリスクも小さく抑えられます。遺言書作成のサポートを使えば、財産の洗い出しから文案、公証役場とのやりとりまで任せられるので、「何をどう書けばいいかわからない」で止まることもありません。
親に切り出しにくいテーマではあります。ただ、「兄さんのために必要なんだ」という説明の仕方なら、話を始めやすいのではないかと思います。
② 家族信託を使う
財産の中心が不動産の場合、あるいは親自身の判断能力低下も心配な場合に有効です。
親が元気なうちに信頼できる家族へ財産の管理・処分権限を託しておく契約で、親が認知症になっても受託者が実家を売却したり管理したりできます。承継先をあらかじめ決めておくこともできるため、相続時の手続きも簡素になります。
ただし設計の自由度が高いぶん、契約内容を誤ると機能しません。家族信託のコンサルティングのように、設計段階から相談できるところで組むべき仕組みです。
なお、どちらの対策も親の判断能力があるうちにしか実行できません。「そのうち」が効かないテーマだという点だけは、押さえておいてください。
すでに相続が発生している場合の進め方
最後に、いま手続きが止まっている方のための順番を整理します。
1. 相続人を確定させる
被相続人の出生から死亡までの戸籍を集めます。ここで想定外の相続人が出てくることもあります。後見の申立てと並行して進められる作業です。
2. 判断能力の程度を確認する
主治医に相談し、成年後見用の診断書を作成してもらいます。程度によっては「保佐」「補助」で足りる場合もあり、その場合は本人の関与の仕方が変わります。
3. 家庭裁判所に申し立てる
選任まで3〜4か月。ここは待つしかないので、早く出すほど早く終わります。
4. その間に、できる手続きを片づける
戸籍収集、財産の調査、金融機関への残高証明の請求、仮払い制度の利用。これらは協議の成立を待たずに進められます。
相続手続きは、金融機関の解約や不動産、自動車、有価証券の名義変更まで含めると100種類以上にのぼると言われます。平日に役所や銀行を回れない方も多いはずです。遺産相続手続きの代行を使って書類集めを並行させておくと、後見人が選任された直後に協議へ入れます。
待ち時間を空白にしないこと。これが全体の期間を縮める一番の方法です。
まとめ
相続人のひとりが認知症の場合、家族全員が納得していても遺産分割協議は成立しません。判断能力を欠いた人の法律行為は無効だからです。
解決策は成年後見の申立てのみで、選任まで3〜4か月。さらに後見人は本人の法定相続分を確保する義務を負うため、分割の中身も自由には決められなくなります。相続が終わっても後見は続き、報酬の負担も残ります。
2026年6月に成立した改正民法でこの構造は見直されますが、施行は2028年ごろの見込みです。
そして、この事態は遺言書ひとつで回避できました。費用も時間も、後見の申立てとは比べものになりません。
家族のなかに認知症の方がいる、あるいはその可能性がある。そう感じたら、親が元気なうちに動いておくことをおすすめします。
※本記事は一般的な制度の説明です。個別の事案では、判断能力の程度や財産構成、相続人の関係によって取るべき手続きが変わります。費用や期間は目安であり、裁判所や地域によって異なる場合があります。具体的な対応については専門家にご相談ください。
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